埼玉県にはどんな歴史が残ってるんだろう?


 ここでは、埼玉県の簡単な歴史を追いながら、刻々と変化している県政の特徴と共に、
率直に感じていることを前編「歴史編」・後編「現代編」に分けて、紹介していくコーナーです。
「埼玉県って、いったいどんな県なんだろう?」という疑問にも、お答えできると思いますよ。
 まずは、このレポートの前編「歴史編」から見ていきましょう。
現在では、本当にモダンな姿に生まれ変わった埼玉県。果たして、この地域にはどのような時代背景が描かれていたのでしょうか?
それでは早速、県の特徴から始めましょう。皆さんを、大昔の埼玉県へとご案内いたしましょう。

埼玉県の主な特徴

 埼玉県は、関東平野に位置し、面積およそ3800キロメートルの、内陸県である。
この広さは、国土のやく1/100にあたり、全国で39番目の広さであり、西部の山 地・中央部の洪積台地・東部の沖積低地からなる。
山地の面積が、全体の1/3であるのに対し、残り2/3を平地がしめているのが、特徴である。
また、四季の変化においても明らかである埼玉県は、冬には乾燥した空っ風と呼ばれる北西からの季節風がふく日が、非常に多い。
そして夏には、南東からの季節風が支配的となるた め、日中の気温はかなり高く、長い間蒸し暑さが続くことも、典型的な特徴と言える。

時代背景


 埼玉に人が住み着くようになったのは、今からやく3万年前と言われている。
所沢の砂 川遺跡(現所沢市)や、川本町の白草遺跡などから発見された石器類からは、当時の人々 は、狩で取れた魚屋獣などを、食料にしていたことが伺える。
そして2000年ほど前に なると、西日本から稲作が伝わると共に、金属器を使う新しい文化も、同時に伝えられた。
これらにより、大地の減りや低地に大きな集落ができるようになり、弥生土器が作られる ようになったのも、ほぼ同じ時季である。


 やがて、時は古墳時代へと入る。やく1600年前に、関東地方でも古墳が作られるようになり、行だのさきたま古墳群 (現行田市周辺)の うちの一つである、稲荷山古墳から出土した国宝のきんさくめい (鉄建)には、115もの文字が刻まれており、古代とうごくの様子を知るための、貴重 な資料となっている。


奈良時代には、秩父地域において和銅という自然の銅が発見された。これは、埼玉県でも歴史に残る大発見と言えよう。


 鎌倉時代に入ると、武士が政権を握るようになるが、このころに活躍した川越(かわご え)氏は川越市うわどに、畑山(はたけやま)氏は嵐山町菅谷に、館を構えていたと言わ れる。
この他にも、武蔵武士の館跡が、県内の各地に残されている。
南北朝時代に入り、武蔵武士の多くは北朝方について、各地で合戦した。県内では、小手 指が原(現所沢市)の合戦場をはじめ、女影が原(現日高市)などが合戦場渡して、知ら れている。
室町時代から戦国時代にかけて、有力な武将たちは城を築いて敵に備え、 鉢形(現寄居町・松山(吉見町・岩槻・川越などの城を中心に戦いが繰り広げられる。


 江戸時代になると、旗本領や天りょう(幕府直轄領)が、県域に設けられる。
また、川 越や岩槻などの3はんでは城下街として発展し、交通も整備され、江戸を中心に5海道が 設けられ、県内には中仙道と日光道中(奥州道中とも呼ばれる)が、通っていた。

中山道


中仙道とは、江戸時代に東海道とともに江戸と京都を結ぶ重要な街道であり、この街道の道程は、江戸日本橋から武蔵国(埼玉県)・上野国(群馬県)・信濃国(長野県)・美濃国(岐阜県)・近江国(滋賀県)の草津を経て、そこで東海道と合流して京都に至る。
また、埼玉県内に置かれていた宿場は、蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄の9箇所に渡る。

日光道中


日光街道は、江戸日本橋と日光・鉢石宿を結ぶ基幹道で、徳川家康を御神体とする東照社(後に東照宮)参詣を目的に整備された街道であり、埼玉県内には草加・越谷・粕壁(現在では「春日部」と記す)・杉戸・幸手・栗橋の6箇所に、宿場が置かれていた。
またこの時代には、新田開発も盛んに行われて、野火止(現新座市周辺)用水や見沼用水 などの、大規模な用水路も開かれる。
これらの開発は、埼玉県を関東地方の代表的奈穀倉 地帯として発展させ、やがて明治4年には、現在の「埼玉県」の名称が、誕生すること となる。


 やがて、時代は明治へと変わった。、明治4年に廃藩置県が行われ、県の統廃合を経て11月14日、埼玉県・入間 県の二つの県が、誕生した。
当時の埼玉県は荒川以東の地域であり、旧浦和県庁舎が使用されていた。
一方、荒川以西と熊谷以北の地域は入間県と呼ばれており、川越に県庁が置かれていた。
明治6年、入間県は群馬県と合併されて熊谷県となったが、3年後の明治9年に分離して 埼玉県に合併されて、ほぼ現在の県の境域が確定したのである。



また、明治16年、上野、王子、赤羽、浦和、上尾、鴻巣、熊谷を結ぶ高崎線が開通し、また2年後には高崎線と東北線の分岐点として大宮駅が開業した。


そして、明治21年4月、市制・町村制が交付され、またさらに29年には郡制が思考されると、県内は、北埼玉・南埼玉・入間・秩父・北葛飾・北足立・比企・小玉・大里の、9の郡に整理された。
ほぼ現在の市町村にまとまるのは終戦後のことであり、昭和35年にはその数95にのぼる。


また、昭和に入ると、全国民を巻き込んだ太平洋戦争での「熊谷大空襲」や、県の東部地域を襲った「カスリンタイフー」など、県全域でも例を見ないほどの大災害が続出した。


昭和46年、明治4年に埼玉県が誕生してから、丁度100年目 に当たることを記念して、その年の11月14日に、「埼玉県民の日」が定められる。
時は流れ、昭和63年、大宮操車場の跡地を利用して、現在のさいたま新都心の建設計が 、持ち上がる。
そして、とうとう平成時代を迎える。平成4年11月14日の県民の日、埼玉の多彩な魅力を伝えこれ からも、力強く発展していきたいとの願いを込めて、埼玉県の愛称、「彩の国さいたま」(さいのくにさいたま) が制定される。
そして、平成12年5月五日、未来の埼玉を担う「さいたま新都心」が街 開きし、翌 平成13年5月一日、その新都心のある大宮市・浦和市 ・与野市の、3市合併によりさいたま市となり、現在では90市町村となっている。
また、埼玉県の人口増加率は全国1位であり、平成14年の8月一日には、県の人口が700万人を越え、新たな時代に期待がかかる。
こうして埼玉県は、さまざまな激動奈時代を乗り越え、発展し、現在でも国の機関の一部移転や、さいたま市や本庄市を中心とした都心地域の整備など、今なお驚異的な発展を見せ続けている。


 はい、現在へ戻ってきましたね!埼玉県の時間旅行、いかがでしたか?
きっと、多くの知られざる埼玉県像に出会えたことでしょう。
さて、後編では県政の特徴を本当に簡単ではありますが、ポイントごとに追っていきながら、私が今率直に感じていることを、述べていきますね。
そんなの難しいよ」なんて思われそうですが、日常生活から見た身近な県政のポイントを追ってあるので、ぜひ読んでやってくださいませ。m(__)m
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