埼玉県は、関東平野に位置し、面積およそ3800キロメートルの、内陸県である。
この広さは、国土のやく1/100にあたり、全国で39番目の広さであり、西部の山
地・中央部の洪積台地・東部の沖積低地からなる。
山地の面積が、全体の1/3であるのに対し、残り2/3を平地がしめているのが、特徴である。
また、四季の変化においても明らかである埼玉県は、冬には乾燥した空っ風と呼ばれる北西からの季節風がふく日が、非常に多い。
そして夏には、南東からの季節風が支配的となるた
め、日中の気温はかなり高く、長い間蒸し暑さが続くことも、典型的な特徴と言える。
埼玉に人が住み着くようになったのは、今からやく3万年前と言われている。
所沢の砂
川遺跡(現所沢市)や、川本町の白草遺跡などから発見された石器類からは、当時の人々
は、狩で取れた魚屋獣などを、食料にしていたことが伺える。
そして2000年ほど前に
なると、西日本から稲作が伝わると共に、金属器を使う新しい文化も、同時に伝えられた。
これらにより、大地の減りや低地に大きな集落ができるようになり、弥生土器が作られる
ようになったのも、ほぼ同じ時季である。
奈良時代には、秩父地域において和銅という自然の銅が発見された。これは、埼玉県でも歴史に残る大発見と言えよう。
鎌倉時代に入ると、武士が政権を握るようになるが、このころに活躍した川越(かわご
え)氏は川越市うわどに、畑山(はたけやま)氏は嵐山町菅谷に、館を構えていたと言わ
れる。
この他にも、武蔵武士の館跡が、県内の各地に残されている。
南北朝時代に入り、武蔵武士の多くは北朝方について、各地で合戦した。県内では、小手
指が原(現所沢市)の合戦場をはじめ、女影が原(現日高市)などが合戦場渡して、知ら
れている。
室町時代から戦国時代にかけて、有力な武将たちは城を築いて敵に備え、
鉢形(現寄居町・松山(吉見町・岩槻・川越などの城を中心に戦いが繰り広げられる。
江戸時代になると、旗本領や天りょう(幕府直轄領)が、県域に設けられる。
また、川
越や岩槻などの3はんでは城下街として発展し、交通も整備され、江戸を中心に5海道が
設けられ、県内には中仙道と日光道中(奥州道中とも呼ばれる)が、通っていた。
やがて、時代は明治へと変わった。、明治4年に廃藩置県が行われ、県の統廃合を経て11月14日、埼玉県・入間
県の二つの県が、誕生した。
当時の埼玉県は荒川以東の地域であり、旧浦和県庁舎が使用されていた。
一方、荒川以西と熊谷以北の地域は入間県と呼ばれており、川越に県庁が置かれていた。
明治6年、入間県は群馬県と合併されて熊谷県となったが、3年後の明治9年に分離して
埼玉県に合併されて、ほぼ現在の県の境域が確定したのである。
また、明治16年、上野、王子、赤羽、浦和、上尾、鴻巣、熊谷を結ぶ高崎線が開通し、また2年後には高崎線と東北線の分岐点として大宮駅が開業した。
そして、明治21年4月、市制・町村制が交付され、またさらに29年には郡制が思考されると、県内は、北埼玉・南埼玉・入間・秩父・北葛飾・北足立・比企・小玉・大里の、9の郡に整理された。
ほぼ現在の市町村にまとまるのは終戦後のことであり、昭和35年にはその数95にのぼる。
また、昭和に入ると、全国民を巻き込んだ太平洋戦争での「熊谷大空襲」や、県の東部地域を襲った「カスリンタイフー」など、県全域でも例を見ないほどの大災害が続出した。
昭和46年、明治4年に埼玉県が誕生してから、丁度100年目
に当たることを記念して、その年の11月14日に、「埼玉県民の日」が定められる。
時は流れ、昭和63年、大宮操車場の跡地を利用して、現在のさいたま新都心の建設計が
、持ち上がる。
そして、とうとう平成時代を迎える。平成4年11月14日の県民の日、埼玉の多彩な魅力を伝えこれ
からも、力強く発展していきたいとの願いを込めて、埼玉県の愛称、「彩の国さいたま」(さいのくにさいたま)
が制定される。
そして、平成12年5月五日、未来の埼玉を担う「さいたま新都心」が街
開きし、翌 平成13年5月一日、その新都心のある大宮市・浦和市
・与野市の、3市合併によりさいたま市となり、現在では90市町村となっている。
また、埼玉県の人口増加率は全国1位であり、平成14年の8月一日には、県の人口が700万人を越え、新たな時代に期待がかかる。
こうして埼玉県は、さまざまな激動奈時代を乗り越え、発展し、現在でも国の機関の一部移転や、さいたま市や本庄市を中心とした都心地域の整備など、今なお驚異的な発展を見せ続けている。